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月刊卓球雑誌ニッタクニュース

月刊卓球雑誌 ニッタクニュース
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日本の肖像「河原智(早大監督)」

横浜市卓球協会会長・早稲田大学監督 河原 智
プロ卓球第1戦東京大会で優勝を遂げたものの...

皆さんは夢を持っていますか? それは、どんな夢ですか? 大きな夢ですか?
いまから36年前というから、昭和43年のことである。
大空高く舞い上がる熱気球のように壮大なロマンが、日本の卓球界で膨らもうとしていた。その気球に、当時、弱冠22歳の青年が乗り込んでいた。しかしそれは、呆気ないほどに滞空時間の短いものとなってしまった。
36年後のいま、それでもそのときと同じ気概と憧れを抱き続けている人物がいる。それが気球に乗っていた青年・河原智氏なのである。

 迷宮入りした3億円事件が起き、小笠原諸島が日本に返還されたのが、この昭和43年だ。世の中は、目まぐるしいほどの速度で動いていた。
この年の1月18日。土曜日の午後とあって、東京・水道橋の後楽園ホールには多くの人が押し寄せていた。プロレスやボクシングの試合ではない。卓球の大会が開かれようとしていたのだ。
 その名も「日本プロ卓球オープン選手権」。そう、プロ卓球の旗揚げである。主催は日本プロ卓球連盟。いまでこそプロとして活躍する選手は、卓球界でも当たり前となったが、当時としては画期的な出来事だった。

 東京オリンピックから4年が過ぎようとしていたこの時代、アマチュア規程が厳しいときでもあった。アマ選手は収入を得ることを目的とせず、その競技を愛好するためのみにスポーツをする者とされていた。そのため、プロ選手となり活動すると大会への出場が制限されることとなる。たとえば、全日本や国体、世界選手権など国内のほとんどすべての試合に出ることができないのである。
 しかし、たとえそうではあっても、卓球の発展とステータス向上を願う有志の意思は固く、“離陸”に踏み切り、その第一歩を標したのである。
 海外の有力選手と国内のプロ選手でトーナメント戦を争い、日本各地を興行してまわるというこの大会。当時のヨーロッパチャンピオン、シュルベック(ユーゴ)をはじめ、ロシヤス(ハンガリー)、マイルス(アメリカ)、国内からは若い河原選手のほか、現在でも史上最強と謳われる藤井則和選手、元日本チャンピオンの星野展弥選手などが参戦した。
 シュルベックは来日早々、
「全部の大会で優勝すると、賞金はいくらになる?」
 と、空港で開口一番ぶち上げたと伝えられる。当時、ヨーロッパのナンバーワンプレーヤーで、ほかにバルカン、オランダ、オーストリアの各国際オープン大会を制していることが、自信の源だったのかもしれない。

 日本プロ卓球第1戦東京大会はマスコミの注目を集めた。テレビでも中継されるほどだった。当日券はまたたくまに完売。後楽園ホールは、1300人にもおよぶ観衆の期待と熱気に包まれたのだ。
 自信満々のシュルベックは決勝で大接戦の末、惜敗する。破ったのは河原選手で、優勝賞金15万円を獲得した。

この熱戦の様子を、当時のニッタクニュース(昭和44年2月号)から抜粋するとこうなる。
〈シュルベックの強打決まったかにみえたが河原の打ち返しみごとに決まる〉
〈スリル満点〉
〈このあと河原は連続強打を決める〉
〈河原が強敵シュルベックを押し切った〉


 白熱した好試合だったことが、文面から伝わってくるようである。日本プロトーナメントは上々の滑り出しを見せた。
 当時のことを河原氏がふり返る。
「早稲田大学4年の1月、つまり、卒業を間近に控えていたときに、退部届を大学に提出してプロ選手になったんです」
 そこには、卓球と卓球界に対する“凝縮された思い”があった。
河原氏が続ける。
「ぼくはいまでも思っているんですけど、プロ卓球、つまり卓球で生計を立てられる人が国内に50人とか100人とかいないと、日本の卓球は栄えないのではないか、と。そしてその本当の狙いは、賞金プロだけではなく、プロコーチ制度にありました。技術が素晴らしいだけではなく、指導力もあるという者を作りたかったんです。プロは野球でもそうですが、15年とか長くて20年の現役生活です。そのあいだに、その後に続くものを築いていってあげたかった。引退後の生活の方が長いのですから。そして、その中のプロ中のプロが大会にも出る、という形で...」


 いま国内にはプロ選手がいる。実業団には、プロに近い形で選手生活をする者もいる。そうした選手たちの現役が終わった後のことまで、当時の河原氏の頭の中には描かれていたのである。
 スタートを切った日本のプロ卓球は、その後、横浜、静岡、大阪、広島、札幌など全国9ヵ所で開催されことになる。しかし、資金面や選手招聘などの面で行き詰まり、1年も経たず経営が成り立たなくなってしまう。

 卓球界にユートピアを求めた河原氏だったが、このことにより、プロ選手であるがゆえに、最も脂が乗った時期に大会への出場の道が閉ざされてしまった。そればかりか、選手を指導することも、また、アマ選手とボールを打つことさえも許されなくなる。その前年には学生チャンピオンとなり、世界選手権にも出ていたにもかかわらず...
 この状態は30歳まで続く。河原氏、苦悩の8年間である。
 では、そんな河原氏はどんな球歴の持ち主なのか...

 
詳細は「ニッタクニュース2005年12月号」に掲載しています
マンスリースペシャルは NITTAKU NEWS より抜粋してウェブ上で公開しています。

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