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昭和22年創刊、800号を迎えたニッタクニュースのバックナンバーから編集部がピックアップしてお届けするページです。
※ここに紹介の記事は、原文を一部抜粋、編集しています。敬称略
QアンドAとエピソードでつづる世界選手権おもしろ史
第36回大会1981(昭和56)年4月14-26日 ノビサド(ユーゴスラビア)
80年代に入り、中国が史上初の7種目に完全優勝。日本は無冠に後退。なぜ?
――前回のピョンヤン大会の男子団体決勝で、中国の男子がハンガリーに完敗したシーンを見たものにとっては、信じられない雪辱であり、大会史上初の完全優勝だね。中国の快挙の秘密は?
中国完全優勝の秘密
――徐寅生中国卓球協会会長と李富栄中国総監督が試合後に語った証言をもとに、たどってみよう。共に『卓球ジャーナル』81年夏号に掲載された。以下「」内は同誌からの引用である。
①決心
「私が(この)二年間にした一番大切なことを一つ挙げるとすれば、それは決心した、ということです。必ずタイトルを奪回するのだ、という決心をしました」と、徐会長。
会長の決心を中国卓球協会の役員・コーチ・選手たちにも伝え、一丸となって決心を持続したのだという。決心を忘れないために、冬にマイナス15℃の土地を選んで合宿をしたりして、雪辱を誓いあった。
李総監督によれば、81年大会の男子団体で中国チームは、“19対19の試合が6回”、“ジュースの試合が13回”あり、それぞれ5勝1敗と10勝3敗で中国が勝っている。決心の強さときびしい訓練に耐えた精神力の強さを物語るものであろう。
②新人の育成と起用
新人を徹底的に鍛え、大胆に起用したこと。男子団体決勝で3人とも新人を起用するのは、中国としては初めてのことであり冒険であったが、「断固として彼らを信じ起用しました」(李)
謝賽克・蔡振華・施之皓の平均20歳の若者たちは、前回と同じメンバーで戦うハンガリーを圧倒し、5対2で中国に勝利をもたらした。ヤングパワーの大活躍が、中国チーム全体に弾みをつけた。
③サービスの強化
前大会の中国男子はショートサービスに片寄り、これをヨニエルらに待ち伏せされて敗れた*。
*ハンガリーのベルチック監督は、優勝の直後に「ショートサービスに対するレシーブ攻撃を徹底的にやってきたことが勝因」と語った。
そのことを反省し、サービスのさらなる強化につとめ、ショートサービスに片寄らないようにするとともに回転変化などにも工夫した結果、ノビサド大会では「(サービスで)相手を撹乱できるようになりました」(李)。
④献身的に協力した練習相手
『人民日報』であったと記憶しているが、徐寅生会長が完全優勝の原因の一つとして献身的な協力をしてくれた練習相手のことを、一人一人の名前をあげながら発表した。
これらは、いつの時代でも当てはまる「大活躍の条件」と言えそうだ。個人戦5種目すべての決勝が中国選手同士の対戦であったことが、この大会での中国チームの勢いと圧勝ぶりを語っている。
日本、無冠に転落
――日本は高島規郎・小野誠治・阿部博幸・五島ひで男・前原正浩のメンバーで男子団体3位に入賞したが、女子が9位に後退。個人戦も5種目のすべてで準々決勝までに敗退し、初めて無冠に転落した。それが今もつづいている。日本後退の原因は?
……いろいろあろうし、人によって意見もわかれよう。だが、現象面から言うと、50・60年代のような技術革新がないこと。それと、日本の伝統であった「低いボールのスマッシュ」を打つ選手が、斎藤清(82~92年の間に全日本8回優勝)、星野美香(83~90年の間に全日本7回優勝/編注・現姓:馬場、現女子日本代表監督)を除くとほとんど見かけなくなったし、「フットワーク」について言えば、今や中国(王励勤ら)に及ばなくなっている。
――つまり、技術革新と伝統を生かすことの二つの面で後退しているわけだね。
……昨年の1月にナショナルトレーニングセンターができ、ここで集中した長期の合宿が組めるようになったことは明るい材料。横浜大会で30年ぶりの金メダル奪回を期待したいね。(編注・2009年横浜大会では惜しくも銅メダルが日本の最高順位となったが、2017年デュッセルドルフ大会で、吉村真晴・石川佳純ペアが混合複で48年ぶりとなる金メダルを獲得した)
藤井基男(卓球史研究家)
1956年世界選手権東京大会混合複3位。引退後は、日本卓球協会専務理事を務めるなど、卓球界に大きく貢献。また、卓球ジャーナリストとして、多くの著書を執筆し、世に送り出した。特に卓球史について造詣が深かった。ニッタクニュースにおいて「夜明けのコーヒー」「この人のこの言葉」を連載。
本コーナーは藤井氏から「横浜の世界選手権に向けて、過去の世界選手権をもう一度書き直したい」と本誌編集部に企画の依頼をいただいた。執筆・発行の14日後、2009年4月24日逝去