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ニッタクニュースの人気コーナー「日本の肖像」から編集部がピックアップしてお届けします。
日本の肖像とは、各界でご活躍されている卓球人にご登場いただき、卓球を通じて学んだこと、その経験を生かした成功への道を語っていただくコーナーです。
第6回は2015年6月号より、岡隆史さんです。
※所属・年齢・事実は掲載当時のまま
文■細谷正勝
写真■安部俊太郎
日本ヒューレット・パッカード株式会社 代表取締役副社長執行役員
岡 隆史(おか たかふみ)
「私の人生は偶然の連続です。卓球を始めたのも、進学も、人との接触が苦手なのに営業を経験したことも」
1958年(昭33)10月22日、兵庫県洲本市生まれ。家でゴロゴロしているのが好きで、口下手。趣味は1人で楽しめる映画鑑賞、読書。小学生時代は野球と釣りを。
お金がかからないから選んだ。大会直前ペンからシェークに
「お金がかからないことと、簡単に辞めやすいと思って…」
市立青雲中は新入生全員がクラブ活動に参加する制度があった。一緒に入部したのは30人くらい。ボールに触れず、走って素振りを繰り返す単調な練習で、すぐに10人ほどに。
「島で1位なら県大会で優勝というくらい地元の卓球のレベルが高かった。欲もなく、何となくなじみましたね」
3年の県大会で2位に入り、全国中学生大会に出場。大会前までペンだったのに、大会ではシェークで戦った。1回戦敗退も、バックでバチバチ打ったので「新しいタイプの選手が出現」と専門誌に取り上げられた。
不揃いのウェアで全国大会に。自分流が誤解受けることも
「高校は自宅に一番近いという理由で、県立洲本高校へ。大学も推薦だったので受験勉強はほぼしたことがありません」
在学中はすべての高校総体、国体に県代表で出場。春秋の県大会5回のうち団体優勝4回、個人優勝2回、複優勝2回。近畿大会、松崎杯団体2位の実績が。
卓球部は自由奔放。全国大会でチーム全員のユニフォームがバラバラで、役員から注意されたことも。気の毒と思ったのか、スポーツ用品メーカーがおそろいのユニフォームを提供してくれた。
「卓球だけは地道に努力しているつもりだったが、自分流にやっているだけと誤解されることが多かった」
腰を痛めた時(高2)、動かず短期勝負で済むように前へ出てすべて強打。そんな戦い方が『あんな態度の悪い奴を高校総体に出していいのか』と物議を呼んだこともあった。
大学3年バイク事故で転機。バイトが縁でリコーに就職
「筑波大1年の関東学生新人戦で複2位に。ところが、その後の伸び悩みで監督から山奥での座禅修行を命じられたこともありました。精神的に弱いのか、大会は2位どまりで優勝がありません」
当時の筑波大は関東リーグの2部。指導者の育成という部分もあって、初心者とも一緒に練習した。自分もそのまま体育教師になるのだろうなと思っていた。
「大学3年の時、バイク事故を起こし、監督はじめチームには本当に申し訳ないことをしました」
右足骨折で長期入院、ここで卓球をあきらめた。
「あとの学生時代をビジネスホテルのアルバイトで過ごしました。IT企業のお客さんが多く、皆さんにかわいがられ、その縁で就職しました」
勤めたのは東京リコー。当時はコンピューターの黎明期で、SEを希望したが配属は営業。毎日飛び込みセールスで、100枚の名刺をもらうまでは帰社できなかった。
「当時はコンピューターが1台1000万円以上の時代でしたが、2年間で10台買って頂けました」
コンパックショック。人生に無駄なことはない
その後、富士通へ移籍。92年には米国のPCメーカー、コンパック社の日本上陸に伴い転職を勧誘された。同社は1000ドルを切る画期的な低価格パソコンを投入し、「コンパックショック(価格破壊)」というフレーズで世界を席巻した。日本でも当時のマスコミの経済欄に露出しない日はないほど、IT業界に衝撃を与えた。
「卓球の面白さは、自分がどれだけ努力したかがわかる点ですね。卓球を通じて、同僚・後輩、茗渓会OBの方々など、色々な人に出会えたことも自分の貴重な財産になりました」
社会人になってからは、これまで自分が卓球をやっていたと明かしたことがない。女性秘書も「初耳です」
「人生に無駄なことはないですね。今は接点がなくても、どこかでつながっている。成長するためには試行錯誤が必要で、たとえ失敗しても次に生かせばいい」
卓球は事故での右足骨折以来30年以上やっていない。だが、今も卓球時代の知人とたまにあってのやりとりが楽しい。
「今後、時間ができれば卓球をやりたい」という。久しぶりに取り出したラケットは、ラバーの部分が見事に黒ずんでいた。