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ニッタクニュースの人気コーナー「日本の肖像」から編集部がピックアップしてお届けします。
日本の肖像とは、各界でご活躍されている卓球人にご登場いただき、卓球を通じて学んだこと、その経験を生かした成功への道を語っていただくコーナーです。
第19回は2011年10月号より、高松克弘さんです。
※所属・年齢・事実は掲載当時のまま
文■片野賢二
写真■安部俊太郎
株式会社ファルテック代表取締役副社長
高松 克弘
荻村さんとの出会い
国際卓球連盟元会長の故荻村伊智朗氏との出会いは、生涯で3度。今でも鮮明に覚えているという。
1度目は、神奈川県川崎市で日中対抗大会が行われ、高校生代表として参加したとき。
そのときの日本男子監督が荻村さんだった。
2回目は、高校3年の新潟国体(昭和39年)のとき。神奈川代表で出場。優勝候補の一つにあげられていた京都(東山高)を3-1で下し、高松さんは3番ダブルスと4番で、後の世界選手権大会で男子シングルス3位、混合ダブルス準優勝の田阪登紀夫さんを下している。
これで優勝だと思ったら、準々決勝で二人のカットマンを擁する岩手に2-3で惜敗する。
カット打ちができなくてショックを受けていたら、宿舎がたまたま同じだった東京代表の荻村さんにカツト打ちのコツを裸電球の下で教えていただいた。
3度目は、亡くなる数年前。
国公立大の学生を海外遠征に行かせたいので、日本卓球協会に援助のお願いに行ったときのこと。
卓球の実力からいえば援助をするのは難しいが、スポーツは政治や経済と強いつながりがある。
国公立の学生が将来、日本を動かすような人になり、卓球が縁で国と国の結びつきがよくなるということがあるかもしれない。期待を込めて補助をしましょうと言ってくれた。
「即断即決で嬉しかったですね」と懐かしそうに語ってくれた。
生まれは茨城県古河市。5歳のときに横浜に転居。
卓球を始めたのは中学に入ってから。家で雨降りの日に遊び感覚でやっていたことと、近所に卓球場があり、仲間と遊んだことがきっかけ。高校1年のときに、後に高校界の名伯楽として活躍する故板井喬先生(湘南工大附)が聖光学院に転勤。2年間、卓球部の顧間になる。
「マンツーマンで教えていただき、また日産自動車や板井先生の母校の日体大に連れて行っていただきました。日産では小林さん、近藤さんに相手をしていただきました」
中学時代、高校時代の県内のライバルは、高3のときにインターハチャンピオンになる河原智さん(横浜商→早大)。中学時代の対戦成績は1勝2敗、高校時代は1勝1敗だった。
主体性を持つ
一橋大時代は、国公立大会で上位入賞をしていたが、卒業後は富士銀行に入行。海外勤務を経たのち、取締役大阪支店長から証券界を経て、現在は株式会社ファルテックの副社長として活躍している。
「会社は、自動車部品・用品のグローバルメーカーになります」
リーマンショックや大震災の影響があるが、早期に再上場したい、という。
日本の卓球界の現状について高松さんは次のように語ってくれた。
「ぜひ、メダルを取ってもらいたいですね。私たちは荻村さんや田中さんに憧れて卓球をしていましたから、石川佳純選手や福原選手、男子は水谷選手や岸川選手たちが頑張って、優勝してくれれば卓球がもっと盛んになると思います。個人で優勝するようなことがあればいいなと思っています」
最後に、高校時代、日本を代表するプレ―ヤ―で後に世界で活躍する田阪さんとの試合と、好きな言葉について聞いてみた。
「田阪さんとの試合は勝ち負けではなく、自分の生き方を教えてくれた試合だったと思います。あの試合は勝ちたい、勝ちたいという気持ちでプレーをしたときは何もできませんでした。勝ちたいということより、目の前の自分の目標をどうするか、1本1本集中して諦めないでやっていくということに徹したら挽回できました。後で考えると、自分にとらわれない、と言う禅の思想の一端を体験したような気がします」
好きな言葉は、『随所に主となれば、立つところみな真なり』です、という。
これも有名な禅の言葉である。
主体性を持って事に当たらなければ物事は見えてこないということである。