OFFICAL ACCOUNTFOLLOW US
TOPICS
昭和22年創刊、800号を迎えたニッタクニュースのバックナンバーから編集部がピックアップしてお届けするページです。
※ここに紹介の記事は、原文を一部抜粋、編集しています。敬称略
プレミアムインタビュー早田ひなの全文はこちら!
試合中の早田ひな
チャンピオンに欠けていた「モノ」
努力を続ければ、表彰台に上がれる。しかしチャンピオンにはなれない。チャンピオンに相応しい心技体智の全てを兼ね備えてこそ頂点に立つことが出来る。全日本の早田は心身ともに充実していた。
「今までなんとなく頑張っていただけ。頑張りの基準が低くて、結局のところ頑張っていなかったんだな、と思いました。今年は限界を作らないで、色々なことに挑戦して、嫌だったことにも向き合うようになりました。
例えば、サービス練習をするべきだけれど、睡眠時間を優先してしまったり、大事な場面でサービスが台から出てしまったことが原因で負けても、見て見ぬフリで、悔しさから逃げていました。今年に入ってから、気になったことはその日のうちに解決しなければいけない、と行動するようになりました。
そういう努力をすることが大切ですが、それが一番難しいことだと思うんです。努力すれば強くなりますが、努力するまでが一番大変なんですよね。一度努力してみれば、こんなことが出来るようになったんだ、と楽しくなって、楽しさが嬉しさに繋がって…。自分に対して厳しく、自信を持ってプレーして、毎日、緊張感を味わいながら厳しい練習を続けていけば、五輪や世界選手権で金メダルを獲ることも夢でないと思います。今回の優勝で、次のステップに進めたと思います」
右から、石田眞行さん、千栄子さん、早田選手、石田大輔コーチ
石田卓球クラブを代表する選手へ
早田は4歳から卓球を始めた。たくさんの人が早田を応援し、背中を押してくれた、と話す。
「最初に卓球に出会ったのは公民館。そこにいた方が、卓球をするなら、石田卓球クラブに行きなさい、と電話をくださいました。姉が、石田卓球クラブに通っていなければ、私も行っていなかったと思います。
最初は県大会ぐらいで優勝すればいいかな、と思っていましたが、石田卓球クラブの選手はみんな実力があり、初めて出場した全国大会では私だけ予選リーグ敗退。悔しかったです。クラブのみんなが強かったから、毎日が勝負だったのを今でも覚えています。
その中で、毎日バンビ台で腰を痛めながら球出ししてくれた、石田千栄子先生。小学2年生から、私に基礎を叩きこんでくれた任冬(レンドン)コーチ、私のために会社を辞めて、中学3年生次から指導してくださっている石田大輔コーチ。石田眞行先生、石田弘樹コーチ、石田真太郎先生、には本当にお世話になっていますし、私が言うのはおこがましいですが、家族のような関係だと思っています。私は本当に石田卓球クラブが好きなんだな、と思います。私の原点です。応援してくださる人のおかげで頑張れます。人として、卓球選手として目標とされる人間になるのはもちろん、石田卓球クラブを代表するような選手になりたいです。
もちろん、父も母も、毎日の送り迎えや、居残り練習にも文句一つ言わず付き合ってくれて感謝しています」
インタビューを受ける早田ひな
早田ひな、というスタイル
全日本で優勝したが、勝負はこれから、まだまだ、と話す。
「石川選手(佳純/全農)、伊藤選手(美誠/スターツ)、平野選手(美宇/日本生命)と比べたらまだまだです。良くて30%、いや25%ぐらいは追いつくことは出来たかな、と思います。
私を評価してくださる方もいらっしゃいますが、メンタル面、技術面、私生活などまだまだです。
今回、優勝したことによって、もっとやらなければいけないことが分かりました。逆を言うと、やるべきことが完成されたらどんな選手になれるのだろう、という楽しみもあります。
次のオリンピックを目指すのはもちろんですが、今は世界選手権(韓国)が目標で、中国選手がライバルになってくると思います。私の武器はパワーある両ハンドドライブで、そのパワーは中国選手にも通用すると思います。
1日1日限界を作らず、自問自答しながらいろいろなことに挑戦していけば、また大きな成長につながるはずです」
原点である石田卓球クラブ、応援してくれる人に支えられ、成長させられた、と早田はインタビュー中に何度も口にした。その気持ちに嘘はないだろうと感じる。
取材後、石田卓球クラブの生徒一人ずつと写真撮影に応じ、サインをプレゼントしていた。ひなちゃん、ひなちゃん、とみんなに愛される選手となっている。
全日本チャンピオン・早田ひな、の人生がこれから始まる。
全日本選手権優勝後、優勝報告のため、石田卓球クラブへ