TOPICS

ALL TOPICS

2022.06.13

#INFO

「人と人のつながりを大切に」日本の肖像 加々美信光(2014年5月号から)

ニッタクニュースの人気コーナー「日本の肖像」から編集部がピックアップしてお届けします。

日本の肖像とは、各界でご活躍されている卓球人にご登場いただき、卓球を通じて学んだこと、その経験を生かした成功への道を語っていただくコーナーです。

第9回は2014年5月号より、加々美信光さんです。

※所属・年齢・事実は掲載当時のまま

 

文■細谷正勝

写真■沼田一十三

 

元上智大学比較文化学部(現国際教養学部)教授

加々美 信光

 

今月はゲストに一橋大卓球部OBの加々美信光さんをお迎えした。中学のとき野球部から卓球部に移ったキッカケ、都立西高の4年先輩・故荻村伊智朗氏(元国際卓球連盟会長)のエピソード、そして、夢をかけた関東学生リーグ戦などなど鮮やかな卓球青春時代をお聞きした。

 

天理市の全日本選手権!荻村さんの秘密練習相手に

「荻村先輩に出会えたことは、最高のラッキーでした。彼の素晴らしさは卓球にとどまらず何事にも『世界標準の視点』を持っていたこと。その影響で私も『世界標準』を絶えず意識するようになり、早い時期に海外留学したこととあいまって、仕事にも活きました」

二人が一緒に練習したのは荻村氏が日本大学2年、加々美さんが都立西高2年の時だから、今からざっと60年前のことになる。加々美さんは穏やかな表情を浮かべながら、当時のことを淡々と話してくれた。

「出会った頃の荻村さんは無名でしたが、すでに世界を見据えていました。例えば、52年世界選手権ボンベイ大会後、リベンジのため来日した英国のバーグマン、リーチ選手にチャンピオン佐藤博治、国内無敵の藤井則和選手が敗れる姿を観て『次は俺がやらなければ』と言うのを聞いて驚きました」

53年全日本選手権ジュニア東京代表になった時には、一般の部代表の荻村氏と天理市会場に早入りし、秘密練習の相手を務めた。台上に白墨で印をつけて「ここにツッツキで返せ」と指示された。優勝すれば世界選手権代表。だが3回戦では苦手とするカットマンの藤井基男選手と当たる。荻村氏はスポンジラバーで回転に弱く、ラリーが続くと不利。そこで、当時としては珍しいカットマン相手の3球目攻撃戦術を編み出し、結局優勝。世界舞台へ飛び出していった。

荻村さんの練習だけに集中したので、加々美さんは自分の練習が出来ずじまいで大会に臨むことに。「安心しろ、お前はロング相手なら絶対に負けない。ただ、カットマンに当たったらあきらめろ」

練習相手に徹してくれた加々美さんに対する感謝とお詫びの気持ちを照れ屋の荻村氏はそのように表現した。加々美さんはロングマンを連破して勝ち進んだが、しかし、言葉どおり、3回戦でカットマン・成田静司選手(58・59年全日本優勝)に敗れた。

 

一橋大卓球部で主将。関東学生リーグに夢をかける

中学で野球部に入部。しかし、母親が強烈な教育ママで「学業に差し障る」と顧問に退部を直談判。野球部は退部せざるを得なかったが、さてどうするかと思案していた折、「校舎の靴脱ぎ場に置いてあった卓球台を見つけ、そのままのめり込みました」

野球の二の舞にならぬよう、学業にも力を入れた。そうした動機付けをしてくれた母に、今は感謝しているという。

1937年(昭12)3月9日、東京・杉並生まれ。

都立西高から一橋大の7年間はほぼレギュラー。

いずれも卓球部主将を務めた。53年の関東高校選手権、全日本ジュニアの部東京代表にもなった。当時の西高は強かったが、全日本クラスの代表になったのは男子では加々美さんが初、女子では2年先輩に斉藤友希子選手がおられた。

ペンの攻撃型で、フォアハンドオンリーで動き回った。卓球を続けたいから猛勉強した。

大学時代は関東学生リーグ戦に夢をかけた。2部と3部を行ったり来たりで、毎シーズン入れ替え戦を争っていたようなイメージが残っている。それでも三商大(一橋大・神戸大・大阪私市大)の中では圧倒的に強かったし、東京都国公立大リーグの個人戦では1年時に優勝、3年時は2位に入っている。

 

野村証券でロンドンに8年間。OB会「一卓会」会長も10年

卒業後は野村証券に入社。野村総合研究所を経て、野村投資顧問(株)代表取締役副社長などを務めた。

ロンドンに8年間駐在したが、ここでも荻村氏との後日談がある。当時荻村氏はスウェーデンのコーチを務めていて、日本との行き帰りの途上、よくロンドンの加々美宅に立ち寄った。「心が豊かになるようなコトやモノに興味を抱く文化人で、手土産にスウェーデンのホッケーゲームやちょっとした絵画を見つけては届けてくれました」

この時の絵は今も加々美さんの机の脇から加々美さんをじっと見守っているとのことである。

その後、上智大比較文化学部で教壇に立ち学部長に。

95年から10年間、一橋大卓球部OB会「一卓会」会長も務めた。

「卓球をやって良かったことはいい仲間と会えたことです。一卓会もいい勉強になりました。人と人のつながりを大切にして、若い人たちを応援していきたい」

卓球はしばらくやっていないが、全日本選手権とトップ12は必ずご夫人と観戦している。会長時代はリーグ戦にも駆け付けた。卓球は一度やめてしまうとやり直すのが難しい。だから社会人になっても週1回でいいから続けなさいと言っている。自身ももう一度やりたい気持ちがある。

「卓球は見るスポーツとしても面白い。さらにメジャーなスポーツにというのが夢です。そのためにはファンサービスをいかに行うか、興行として成り立つような組織化が必要で、システムづくりを考える人の出現が待ち遠しいですね」と話した。