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ニッタクニュースの人気コーナー「日本の肖像」から編集部がピックアップしてお届けします。
日本の肖像とは、各界でご活躍されている卓球人にご登場いただき、卓球を通じて学んだこと、その経験を生かした成功への道を語っていただくコーナーです。
第21回は2010年6月号より、白川卓生さんです。
※所属・年齢・事実は掲載当時のまま
文■片野賢二
写真■安部俊太郎
JA三井リース株式会社常勤監査役
白川 卓生
ここまで卓球をやれたのはいい仲間に巡り合えたから
「名前は卓生(たくお)、と言います。卓球をやるために生まれてきた名前みたいだね、と中学時代にはよく冷やかされました」
父は柔道で、兄は剣道と野球。親類縁者で卓球と縁のある人はいなかった、と言う。
「両親は、すぐれた(卓)人になってもらいたいという期待を込めて、卓生、とつけたようです。名前負けした感もありますね」と笑顔で語る。
卓球との出会いは、中学に入ってから。兄が剣道をやっていたので、違うスポーツをやってみたい、という理由からであった。
半世紀にわたる付き合いがスタートした瞬間である。名古屋市立振甫中学は、県内では卓球の強豪校として知られていた。練習は厳しく、1年生はトレーニングと素振りがほとんど。ついていけない仲間が2人、3人と抜けていく。夏までに残った1年生部員はわずか4人であった。
「卓球はお手軽なイメージがあるので、最初はたくさん入部します。でも、1学年で4、5人いればいいので、厳しいトレーニングに耐えられる選手だけ残すというやり方でした」
辞めなかったのは、卓球台についてラリーが打てるようになったら、嬉しくて、こんなに楽しいものはなかった、と当時を振り返る。活躍が認められ、私立高校から特待の勧誘があったが、兄や従兄と同じ受験校旭丘高校に進学した。県下では、名電高、中京商、亨栄高の私立勢に、公立では進学した旭丘、岡崎、一宮、半田などがしのぎを削っていた。旭丘は、毎年東大に数十人入るという進学校であるが、スポーツも盛んで、卓球やラグビーなどが県の上位校として活躍。
「1年からレギュラーになれると少し自信があったのですが、先輩が強くて、打ち砕かれました」
3年のときに一般の選手も参加できる愛知県新人戦でベスト4に入る。地元の名古屋大学経済学部に進学。当然の様に卓球部に入る。当時、名古屋大学は東海学生リーグの2部であったが、2年のときに入替戦で勝利し、1部に昇格。入替戦は、愛知学院大だったのですが、勝ったときは本当に嬉しかったですね」
東海学生ランク15位
東海学生リーグは、愛工大、中京大、名商大がビッグ3と言われていた時代である。昭和47年の東海学生選手権大会で、ランキング15位に入る。ベスト8決定戦は、49年に学生王者となる田村隆選手(愛工大)であった。
「1ゲームを取り、2ゲーム目も19-16で勝っていて、先に20を取ったのですが、逆転され、3ゲームも接戦だったのですが、敗れました。悔しい負け方でしたが、田村さんとの試合は忘れられない試合の一つです」と懐かしそうに語る。
昭和48年に三井物産に入社した。
「三井物産の入社試験は数学・英語のほか、面接、性格テストなどがあり、当時は今と違って超売り手市場でしたが試験が一番厳しかったことを覚えています」
10年間卓球を目いっぱいやってきたので、入社したらラケットは置こうと思っていたら、卓球部部長が独身寮(府中)で待っていた。
「夜ごと日ごと、卓球をやろうと攻められまして、ついに逃げ切れず、やることになりました」
それから三井グループの卓球部員として、全三井、全商社、東卓リーグ戦、また三菱、三井、住友、芙蓉の4グループ対抗戦、三栄会、などに参加してきた。現在、全三井卓球連盟の副会長として運営に協力する一方、自らも現役選手として腕を振るっている。
「ここまで長く卓球をやれたのは、いい仲間に恵まれたからだと思います。また、卓球から多くのものを学びました。卓球をやっていなかったら、今の私はいないと思いますし、本当に感謝しています」
好きな言葉は、《努力は人を裏切らない》
「勉強も仕事もそうですが、才能がなくても人の2倍、3倍努力すれば必ず結果はついてくると確信しています」と語り、また、「何事にも定石があり、基本をしっかり学ぶということが大切だ」と話す。
日本の卓球界について、「水谷隼選手、石川佳純選手等若手の台頭で盛り上がってきているのは喜ばしいことですが、もっと経済的に支えていかないと、世界のトップには追いつけないと思います。いつの日か日本の黄金時代が再び来ることを期待しています。個人的には下手なゴルフともども体力の続く限リメタボ対策も兼ねて現役を続けたいと思います」