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ニッタクニュースの人気コーナー「日本の肖像」から編集部がピックアップしてお届けします。
日本の肖像とは、各界でご活躍されている卓球人にご登場いただき、卓球を通じて学んだこと、その経験を生かした成功への道を語っていただくコーナーです。
第22回は2010年5月号より、中村明彦さんです。
※所属・年齢・事実は掲載当時のまま
文■細谷正勝
写真■片野賢二
我孫子市卓球連盟会長
中村 明彦
故荻村氏の都立西高後輩
昨年5月に日本ユニシスを退社。現在も東京都卓球リーグ6部所属のチームの一員としてプレーを続けている。
10月にはジュニア卓球クラブを立ち上げ、週2回(火・金)近くの小学校の体育館を借りて小学2年〜6年生までの10人を指導している。
奥さんの和子さんも一緒。二人は2年前にスポーツ指導員の資格を取っている。
「子どもたちを指導することは励みになりますね。生きがいですよ。彼らは会うたびに変わってくる。無限の可能性を感じます」
卓球との出会いは、9歳ごろ友だちに誘われて遊びで卓球場に通った。会場の名前は武蔵野卓球会館。故荻村伊智朗国際卓球連盟会長が腕を磨いた武蔵野卓球場のすぐ隣だった。のちに荻村氏と同じ都立西高へ進むことになる。
本格的に始めたのは武蔵野一中に進んでから。小学生時代から警察の道場に通い剣道をやっていたので、剣道か卓球のどちらかをやろうと思っていたが、中学に剣道部がなく卓球部を選んだ。中学時代の最高成績は東京都大会の単でベスト8である。
「当時の東京には強い人がゴロゴロいました。のちに中大杉並でインターハイ3冠王になった梨本さんなどね」
高校は文武両道の誉れの高かった西高へ。ここで荻村氏の後輩になる。
「当時の西高は東京都で優勝するような名門でした」
スタイルはペンの裏ソフト。ロングサーブとフオアのドライブを武器にしていた。高2の時主将となり、団体戦でベスト8に入った。準々決勝の相手は関東商工、この大会の優勝校だった。団体戦は単4、複1の5試合で雌雄を決する。オーダーを決めるのは中村さんの役目で、自分は2番にさがった。トップ選手は1番に出るのが常道でありながら。相手のトップ選手は2番手に下がるのでは?と一瞬の迷いだった、という。この相手には過去に何度も勝っていて自信があったとも。しかし、この選択が裏目に出て2-3で敗れた。
「みんなと良く集まるんですが、約50年たった今でもエースがなぜ2番にさがったのかとその話になります。あそこで自分が迷わず1番でエース対決を戦っていれば人生変わっていたかも知れません。高校時代はとにかく卓球一色でした」
東京教育大(現筑波大)と慶大を受験し、両方ともパス。自分に来てほしいといっていた東京教育大理学部数学科に進んだ。専攻について受験前に先輩の荻村氏に相談したことがあった。荻村氏の答えは「実験の少ないところを選びなさい。物理や化学は実験が多いので練習ができなくなりますよ」だった。
「すべて卓球を中心に考えて人生を決めていく荻村氏の考え方には、正直言ってびっくりしました」
当時の東京教育大は国立大の中で強かった。入学したときは関東学生リーグの2部だったが、2部と3部を行ったり来たり。8季で5回の入れ替え戦を経験している。
「私ほど多くの試合を経験している男も珍しいでしょう」と笑う。
バドミントン部部長に
卒業後は日本ユニシスヘ入社。
「会社に入ったらラケットは握らないつもり」だったが、5年後に米ミネソタ州に出張。そこで工場の人たちを相手に卓球を再開した。プロが経営する卓球パーラーに通い実力を発揮し、ミネソタチャンピオンになって、アパートに帰ると、「日本からの国際電話であなたは今日からパパですよ、という嬉しい知らせがあり、忘れられない一日にな
りました」
また、「米国代表で名古屋に行ってきたという全米3位の選手と準々決勝で当たった大会では、君は世界選手権名古屋大会に出場した選手かと聞かれたこともありました」
帰国後、我孫子市に移り、我孫子市の市民大会に優勝したのがきっかけで大会の運営を手伝うようになる。79年に会長になり、以降、30年以上も年間10を数える大会や、講習会の運営に忙しく走り回っている。
78年にユニシスでも「卓球部を作ろうよ」ということになり、楽しむための卓球部を立ち上げた。
現在、クラブ員は中村さんを入れて、約10人。主力は筑波大OBで、試合に出られるのは6人程度。中村さん以外の平均年齢は45歳超。
「今年4月に同好会出身の筑波大の後輩社員が入ってくるので、楽しみ。ぜひ5部に上がりたいですね」
中学で卓球をはじめて今までずっと主将を務めている。卓球から離れていたのは会社に入ってからの5年間だけ。中村さんにとって卓球は「人生そのもの」だという。
奥さんとは、卓球を通じて知り合った。大学のクラスメートで、中村さんが卓球部へ勧誘したのがきっかけで、70年に結婚。ママさん卓球を続けながら卓球連盟の台所を守っている。
「60歳の時、家内がクラブチーム選手権に出場するため地方に遠征。息子も同じ大会の一般の部に出場するということで、僕が一人で留守番をしたことがありました」
卓球で得たことは、交流の輪が広がったこと。89年〜01年まで日本ユニシスバドミントン部の部長を経験している。同社がオリンピツク選手の育成を目標に実業団スポーツ進出を狙うのにあたり、当時筑波大学の体育会卓球部の男子監督をしていた経験が買われた。
初めての企業スポーツの立ち上げの苦労を乗り越えて、92年には日本リーグ1部入り。やめるまでの最高順位は日本リーグも実業団も2位、その間、日本リーグ運営委員会の監事としてバドミントンの役員も経験した。
「私がやめてからは日本リーグで05、06、09年と3回、実業団で1回優勝しています。女子部も今年創部3年目で1部に昇格しました。日本代表選手も大勢出ています。うれしいことですね。それにしても企業スポーツ
が景気の波に影響されるのはやむを得ないとしても、あちこちで廃部や休部の話を聞くと、選手が可哀そうで断腸の思いです」
現在は選手として、指導員として卓球に携わり、バドミントンは後援会幹事としてOBに試合場で応援してくれるように働きかけ、自分も各地を巡っている。まさにエキサイティングな定年後といえる。現在の卓球界をどう見ているのか。
「若い有望選手が続々出てきている。10年間の強化策が実を結んで来ていますね。指導者たちの努力のたまものでしょう。将来が明るいと思いますよ」