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昭和22年創刊、800号を迎えたニッタクニュースのバックナンバーから編集部がピックアップしてお届けするページです。
※ここに紹介の記事は、原文を一部抜粋、編集しています。敬称略
QアンドAとエピソードでつづる世界選手権おもしろ史
第10回1936(昭和11)年3月12~18日 プラハ(チェコ)
Q 第10回大会で何が起こった?
A 1ラリーを2時間粘り合った
――たった1ポイントをとるのに2時間あまりも粘り合いをしたなんて、信じられない。新幹線で東京を出発し、名古屋に着くまでの時間、ラリーが続いたわけだね。
……そう。よもや、そんなに長いラリー戦になるとは想像もつかなかったから、審判員は競技時間を記録していない。そのため、2時間をこえたことは確かだが、正確なことはわからず、「2時間5分説」と「2時間12分説」がある。
――守備的な打法である「ツッツキ」で粘り合ったわけだね。
……そう。
――競技者は誰で、なぜそのような長時間も粘り合うことになったの?
……ポーランド対ルーマニアの男子団体戦のトップ、〈エーリッヒ対パネス戦〉で起こっている。生前のエーリッヒにインタビューすることができ、それを私が『卓球レポート』に発表したが、以下はその要点である。
*****
私の所属するポーランドは、すでに2敗していた。相手のルーマニアは全勝…。ポーランドは私のほかの二人が弱い。しかし、私には自信があった。
トップの試合。私は打って15分で破る自信があった。〔注…エーリッヒはシングルスで3回決勝へ出たほどの強豪選手である〕しかしルーマニアをやっつけるには、時間をかけて粘り倒し、体力的にも精神的にもルーマニアをくたくたにしなければならない、と思ったんです。
最初の1時間を私は右手でプレーし、次の30分は左手にラケットを持ちかえてプレーしたんです。(そのあとの40数分を右手でプレーし)相手のバックサイドだけに球を集めた。そして突然フォアへ返したら、パネスにミスが出た。これでパネスが精神的にまいってしまい、試合を捨て、スコアは21-5、21-6でした。
試合の間に審判が3回交替しました。彼らは首を痛めたり、腹がへったのです。
ルーマニア・チームは全員、体力と気力を失い、予想を裏切ってわれわれが5-0で勝ちました。
*****
……当時のルールでは、ネットが今より3/4インチ(約1.9センチ)高かった。それに加えて、極端に弾みの悪い卓球台が使われた。つまり、攻撃よりも守備のほうが有利な条件が重なった。それに加えて、戦術家のエーリッヒが徹底的に粘り倒そうとしたために「1ポイント2時間強」の事件が起きたのであった。なお、当時は決勝戦を「夜の部」に行っていたが、男子団体決勝が3日がかりの11時間かかることもあった。
…第11回大会では何が起こったのか!?後編は7/7に配信します!お楽しみに!
こぼれ話
“それは道化芝居だった”
エーリッヒとパネスの試合中のこと――。
この長すぎる試合をどう解決するかについて、国際卓球連盟の裁定委員会が、緊急に開かれることになった。会議のメンバーの中に、なんと、いま試合中のパネスがいる。そこで、この試合のコートサイドで会議を行うことになった。犯人が裁判官に加わるようなもので、「それは、まったく道化芝居(こっけいな芝居)だった」と第2代国際卓球連盟会長のロイ・エバンスが自叙伝で述べている。
藤井基男(卓球史研究家)
1956年世界選手権東京大会混合複3位。引退後は、日本卓球協会専務理事を務めるなど、卓球界に大きく貢献。また、卓球ジャーナリストとして、多くの著書を執筆し、世に送り出した。特に卓球史について造詣が深かった。ニッタクニュースにおいて「夜明けのコーヒー」「この人のこの言葉」を連載。
本コーナーは藤井氏から「横浜の世界選手権に向けて、過去の世界選手権をもう一度書き直したい」と本誌編集部に企画の依頼をいただいた。執筆・発行の14日後、2009年4月24日逝去