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2020.12.07

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【世界選手権おもしろ史23】「卓球が五輪正式種目に!オレンジ球の誕生。荻村伊智朗がITTF会長に!」 (2009年5月号から)

  • ソウル五輪から卓球が正式に認められる。斎藤(右)がシングルスで活躍。星野・石田組が惜しくも4位

昭和22年創刊、800号を迎えたニッタクニュースのバックナンバーから編集部がピックアップしてお届けするページです。


 

2009年5月号世界選手権横浜大会開催記念号から、故・藤井基男氏・著の「世界選手権おもしろ史」をお届けします!
※ここに紹介の記事は、原文を一部抜粋、編集しています。敬称略

 

QアンドAとエピソードでつづる世界選手権おもしろ史

 

五輪初参戦1988(昭和63)年9月22日-10月1日 ソウル(韓国)

野球は認められなかったのに、なぜ卓球が88年ソウル大会から五輪の正式種目に選ばれたか。サマランチIOC会長の助言とは?

野球が落ち、卓球が入ったワケ。星野・石田組がメダル寸前の4位

――卓球とテニスが、ソウル大会からオリンピック夏季大会の正式種目に加わったね。

……野球も一緒に申し込んだが、この時は認められず、その後に認められている。新種目採用の基準に、卓球とテニスは合格し、当時の野球は基準にみたなかったからである。

――国際オリンピック委員会(IOC)が決めた、その基準とは?

……「最低50カ国、3大陸で普及していること」というもので、卓球は125協会がITTFに加盟しており、6大陸で普及*しているので、ゆうゆうこの基準をパスした。これに対し、野球のそのときの普及度は「42カ国、3大陸」ということで認められなかった。

*(編注:2017年には226の加盟数となり、全ての国際スポーツ競技連盟の中で最多を誇っている)

 ソウル大学体育館で行われた卓球競技は、地元韓国の大活躍があって、連日満員となる大人気だった。

 優勝者は次のとおり。

男子シングルス:劉南奎(韓国)

女子シングルス:陳静(中国)

男子ダブルス:陳龍燦・韋晴光(中国)

女子ダブルス:梁英子・玄静和(韓国)

 

 日本チームで活躍が光ったのは、メダル獲得もう一歩のところまで進んだ男子シングルスの斎藤清(2位となった金琦澤に2-3で惜敗)と女子ダブルス4位の星野美香・石田清美組であった。次の大会からシングルスなら二人、ダブルスなら二組を3位とすると改められたが、ソウル大会では3、4位決定戦があって敗れたために日本のメダル獲得とはならなかった。試合後に星野は「3位と4位とじゃずいぶん違います。残念ですけど、精一杯やった。満足度はあります」と語った(『TSPトピックス』)

 

サマランチIOC会長の助言で、91年千葉大会にオレンジ球を採用

――サマランチIOC会長の助言とは?

……そう先を急がないで。卓球をオリンピック参加にこぎつけた最大の功労者はエバンス第二代国際卓球連盟(ITTF)会長で、IOCからその功労により銀賞を受賞している。前年(87年)に第三代会長に就任した荻村伊智朗が、ソウル大会卓球競技のリーダーシップを発揮した。また、来場される各界の要人の接待役をつとめた。観戦中にサマランチIOC会長が、荻村ITTF会長に対し、カラーボールの採用を助言した。卓球を見なれない人びとにとって、白球を目で追うのはむずかしいから、というもの。

 これを受け入れ、最初は黄色球が試作されたが、早く打つとテレビには白球にうつることがわかり、オレンジ球に改良。これが、91年の世界選手権千葉大会で初めて使用された。

 ソウル大会の卓球の人気度は高く、全競技を通じて4番目だった。

 

●こぼれ話

“国際ペア”が消えた!!

 オリンピック種目に加わったことによって、特に大会期間中に卓球が新聞やテレビで大きく取り上げられることが多くなった。

 一方、卓球の長年の伝統が、二つ消えた。一つは、表彰の際に“国旗・国歌”を使わないことでトラブルを避けてきたが、IOCの取り決めにしたがって、表彰で旗と歌を使うことになった。また、外国人とダブルスのペアを組む“国際ペア”が認められなくなった*。このルールが70年代の世界選手権にもし導入されていたら、日本は73年も75年も無冠となるところであった。

*編注:2015年世界選手権蘇州大会から、国際ペアが復活。馬龍(中国)とボル(ドイツ)のドリームペアなどが注目を集め、混合複では許昕(中国)・梁夏銀(韓国)が優勝を果たした

 

荻村伊智朗が第三代ITTF会長に

 卓球のさらなる発展を願い、4つのビジョンをかかげて荻村伊智朗が第三代ITTF会長に1987(昭和62)年の総会で立候補。ロイ・エバンス第二代会長を65対39票の大差で破って、外来スポーツでは日本人初の国際連盟会長に就任した。卓球のメジャー化にむけて、数々の改良に着手したことについては、上原久枝・織部幸治・藤井基男編『荻村さんの夢』(卓球王国)を参照ねがいたい。

 


藤井基男(卓球史研究家)

1956年世界選手権東京大会混合複3位。引退後は、日本卓球協会専務理事を務めるなど、卓球界に大きく貢献。また、卓球ジャーナリストとして、多くの著書を執筆し、世に送り出した。特に卓球史について造詣が深かった。ニッタクニュースにおいて「夜明けのコーヒー」「この人のこの言葉」を連載。

本コーナーは藤井氏から「横浜の世界選手権に向けて、過去の世界選手権をもう一度書き直したい」と本誌編集部に企画の依頼をいただいた。執筆・発行の14日後、2009年4月24日逝去