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昭和22年創刊、800号を迎えたニッタクニュースのバックナンバーから編集部がピックアップしてお届けするページです。
※ここに紹介の記事は、原文を一部抜粋、編集しています。敬称略
QアンドAとエピソードでつづる世界選手権おもしろ史
第31回大会1971(昭和46)年3月28-4月7日 名古屋(日本)
中国が6年ぶりに名古屋大会へ出場し、男女団体決勝を日本と。
ベンクソンら欧州大躍進。そして“ピンポン外交”
――中国の6年ぶりの参加を中心に話題豊富で、盛り上がった大会だったね。
……まだ文化大革命の最中であったが、訪中して中国の参加を強く呼びかけたのは大会組織委員会会長であり、日本卓球協会会長の後藤鉀二であった。
男子は荘則棟らの中国、女子は小和田・大関の活躍で日本が優勝
――61~65年大会と同じく、男女団体とも日本と中国の間で決勝が行われたわけだね。
……そう。男子が荘則棟、梁戈亮、李景光とまったく違うタイプの選手をそろえた中国が優勝。長谷川信彦、伊藤繁雄、河野満の日本を5-2で破った。女子が小和田敏子、大関行江を主力とする日本が優勝。中国が誇る林慧卿、鄭敏之の両カットマンに対して、小和田はドライブからのスマッシュで、大関は世界1の変化ツッツキからの攻守で快勝した。
欧州“18年ぶり”の大躍進=速攻ベンクソン、パワードライブヨニエル
――ヨーロッパの男子が、大躍進したね。それも「伝統のカット」を主体とするプレーから抜け出し、攻撃型卓球で。画期的なことだね。
……ベンクソン(スウェーデン)がシド(ハンガリー)以来18年ぶりとなる男子シングルスのタイトルをヨーロッパにもたらした。ヨーロッパが生んだ両ハンド攻撃による史上初の速攻型チャンピオンである。男子ダブルスでは、ハンガリーのヨニエルとクランパが後に「パワードライブ」と命名されるパワフルなドライブで優勝した。ヨーロッパの男子が力と自信をつけた大会となったが、その先頭にたったのが、18歳のベンクソンと20歳のヨニエルであった。ベンクソンは日本での4ヶ月の合宿で急成長、これが勝因となったと本人も語っている。大会中にあいているコートを見つけてはほかのどこの国の選手たちよりも練習をしていたのが、一日6時間の練習で鍛えたヨニエルとクランパであった。
女子個人戦では、世界選手権史上で最高のカットマン林慧卿が3冠王となった。カットでファインプレーした次はかならずと言ってもいいほど強力なフォアハンド攻撃に転ずる積極果敢なプレーぶりであった。
卓球を仲だちに米・中関係が改善――“ピンポン外交”と呼ばれた
――名古屋大会で“ピンポン外交”という新語が生まれたわけだが、ピンポン外交とは?
……アメリカと中国は、政治の面でつめたい関係にあった。49年の新中国誕生以来、スポーツ、芸術などの文化交流もなかった。名古屋大会の最終日に中国側が「今大会に参加しているアメリカ選手団等を中国に招待する」と発表。これが世界的なニュースとなり、訪中したアメリカ選手団は大歓迎をうけ、直後のニクソン大統領の訪中へと発展する。卓球が仲だちになってアメリカと中国の雪どけ(関係改善)に役だち、“ピンポン外交”と呼ばれた。
●こぼれ話
パワードライブとニッタク3スター
・ハンガリーのヨニエルとクランパのドライブは、それまでのドライブとはちがう快速球でスマッシュの代用にも使われた。これを、なんと呼ぶか。当初日本ではこれを「パワフルなドライブ」「ハンガリーの例のドライブ」などと専門誌で使われた。「パワードライブ」という名称が定着したのは74年ごろであった。
・名古屋大会で日本製のボールがはじめて採用された。それが「ニッタク3スター」だった。その後「ニッタク3スター」は、世界選手権をはじめとする国際大会で広く使われるようになった。他社のボールも世界の公認球となった。
世界選手権名古屋大会で使用されたニッタクボール
藤井基男(卓球史研究家)
1956年世界選手権東京大会混合複3位。引退後は、日本卓球協会専務理事を務めるなど、卓球界に大きく貢献。また、卓球ジャーナリストとして、多くの著書を執筆し、世に送り出した。特に卓球史について造詣が深かった。ニッタクニュースにおいて「夜明けのコーヒー」「この人のこの言葉」を連載。