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昭和22年創刊、800号を迎えたニッタクニュースのバックナンバーから編集部がピックアップしてお届けするページです。
前回に引き続き「二つの世界大戦が残した三つの悲しい出来事」の後編です。
※ここに紹介の記事は、原文を一部抜粋、編集しています。敬称略
QアンドAとエピソードでつづる世界選手権おもしろ史
第一次世界大戦 1914(大正3)年-18年
第二次世界大戦 1939(昭和14)年-45年
Q―-二つの世界大戦が残した三つの悲しい出来事とは?
――二つの世界大戦の“つめ跡”というか。大戦は世界選手権にさまざまなマイナスをもたらした。その代表的なものを三つ挙げ、説明してよ。
A……②7年間の中断
’40~’46年=7年間の大会中断
……第二次世界大戦のため、世界選手権は’40(昭和15)~’46年の7年間、全日本選手権は’41~’45年の5年間、中断された。世界の多くの人びとが、この間に卓球のプレーを奪われた。4回優勝のバーグマン(オーストリアからイングランドに移籍)のように、22~28歳の本来絶頂期に、史上最多の6回優勝のチャンスを奪われた人もいる。
A……③“日本たたき”
’54年=ヨシと言ったらミスに
……日本は米国、英国などを相手に太平洋戦争を戦った。戦後9年たった’54年大会に日本選手がロンドンの土を踏んだ時のこと。さまざまな“日本たたき”がイギリスの観客や審判員などからあった。
荻村伊智朗によると…。
・日本選手が得点して「ヨシ」と言ったら、審判員にミスにとられた。
・観客が、日本と対戦する相手のチームを応援した。
・荻村が男子シングルスの決勝前に練習しようとしたら、電灯を消され、練習なしでフリスベリー(スウェーデン)との決勝を戦わなければならなかった。
・街に散髪にいくと、日本人の座る椅子はない、と断られた。
こうした“日本たたき”にあったが、日本は3種目に優勝した。
戦争のつめ跡は、およそ10年たっても消えないことを①と③が物語る。
藤井基男(卓球史研究家)
1956年世界選手権東京大会混合複3位。引退後は、日本卓球協会専務理事を務めるなど、卓球界に大きく貢献。また、卓球ジャーナリストとして、多くの著書を執筆し、世に送り出した。特に卓球史について造詣が深かった。ニッタクニュースにおいて「夜明けのコーヒー」「この人のこの言葉」を連載。
本コーナーは藤井氏から「横浜の世界選手権に向けて、過去の世界選手権をもう一度書き直したい」と本誌編集部に企画の依頼をいただいた。執筆・発行の14日後、2009年4月24日逝去