OFFICAL ACCOUNTFOLLOW US
TOPICS
2020.10.22
【世界選手権おもしろ史16後編】「日中2強時代!日本選手は荻村の他にミスター・フットワークと呼ばれたあの人!」 (2009年5月号から)
昭和22年創刊、800号を迎えたニッタクニュースのバックナンバーから編集部がピックアップしてお届けするページです。
※ここに紹介の記事は、原文を一部抜粋、編集しています。敬称略
QアンドAとエピソードでつづる世界選手権おもしろ史
第26回大会1961(昭和36)年~第28回大会1965(昭和40)年
61~65年は、日本と中国の「2強時代」に。中国大躍進の秘密はどこに?そのとき活躍した日本選手は?
――1960年代に入り、61年の北京大会(中国)から65年のリュブリアナ大会(ユーゴ)までの5年間は「日本と中国の2強時代」になったわけだね。
……北京大会の男子団体で、荘則棟を柱とする若い前陣速攻の中国が日本の6連覇をはばみ、初優勝。それから65年までの5年間は、男女団体の決勝のすべてを日本と中国の間で戦い、男女シングルスの優勝者もこの両国からしか出ていない。まさに「日・中の2強時代」であった。
この時代に活躍した日本選手は?
……男子は荻村伊智朗、早稲田大学の木村興治。木村は“ミスター・フットワーク”といわれ、ダブルスで特にその強さを発揮し、男子複と混合複で3回優勝している。65年大会では高橋浩が中国との団体決勝で荘則棟と張燮林(日本人で張を破ったのは彼ひとり)を破っている。
女子では松崎キミ代が日本のエースとして活躍し、59年以来、団体3連覇、シングルス2回優勝の成績を残している。少女時代にソフトボールで発揮したその強肩で強力なフォアハンドのスマッシュ、そしてペンホルダーの日本女子には珍しく前陣でのバックハンド攻撃を得意とした。北京大会でシングルスに敗れたあとのパーティで、周恩来・中国首相に「アナタ、イチバン」と日本語で賞賛されたように、松崎はこの時代における“世界の実力ナンバーワン”であった。山泉和子、関正子、深津尚子らが松崎に続いた。深津はペンのドライブで徹底的に粘って、中国の誇る林慧卿、鄭敏之の両カットマンを破って65年の世界チャンピオンとなった。
こぼれ話
「波乱の人生」と「勝利の女神」
荘則棟はあざやかな速攻で61・63・65年に3連覇の偉業を達成した。その後、若くしてスポーツ大臣に。まさに栄光の絶頂。だが、政変で失脚。その後は表舞台に出ることはなく、北京市内で卓球コーチに。波乱万丈の人生である。
松崎キミ代は、先輩の江口冨士枝らから「マッツァン」の愛称で昔も今も呼ばれる。ハンガリー語で「マッツァン」は、“女神”の意味であることが松崎キミ代自伝に書いてある。松崎の活躍は、卓球ニッポンにとって、まさに“勝利の女神”であった。
藤井基男(卓球史研究家)
1956年世界選手権東京大会混合複3位。引退後は、日本卓球協会専務理事を務めるなど、卓球界に大きく貢献。また、卓球ジャーナリストとして、多くの著書を執筆し、世に送り出した。特に卓球史について造詣が深かった。ニッタクニュースにおいて「夜明けのコーヒー」「この人のこの言葉」を連載。
本コーナーは藤井氏から「横浜の世界選手権に向けて、過去の世界選手権をもう一度書き直したい」と本誌編集部に企画の依頼をいただいた。執筆・発行の14日後、2009年4月24日逝去