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2020.09.10

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【世界選手権おもしろ史11後編】「日本の明と暗。日本チャンピオンが出場停止?」 (2009年5月号から)

  • 国内では圧倒的に強く、戦後の全日本に5回出て負け知らずの藤井則和(『写真で見る日本卓球史』から) 

昭和22年創刊、800号を迎えたニッタクニュースのバックナンバーから編集部がピックアップしてお届けするページです。


 

2009年5月号世界選手権横浜大会開催記念号から、故・藤井基男氏・著の「世界選手権おもしろ史」をお届けします!今回は、前回に引き続き「日本の明と暗」。日本卓球界に暗い影を落とした衝撃的な事件とは?

※ここに紹介の記事は、原文を一部抜粋、編集しています。敬称略

 

QアンドAとエピソードでつづる世界選手権おもしろ史

 

第16回大会1949(昭和24)年2月4-10日 ストックホルム(スウェーデン)

Q――日本の明と暗―国際復帰第1号と日本チャンピオンの出場禁止、なぜ?

――1949年から50年にかけて、日本卓球界には明るい話題と暗い話題があったね。

明るい話題は、国内の国際復帰第一号が卓球だったこと。では、暗い話題とは?

2.暗―卒業試験の替玉事件

――日本チームは1950年3月の全米選手権へ参加したの?

……残念ながら、取りやめになった。

――どうして?

……3月7日に全米選手権に参加する選手団の壮行会が東京の芝スポーツセンターで行われた。城戸尚夫団長のもと、日本チャンピオンの藤井則和(関西学院大)らが代表に選ばれていた。ところが、この壮行会の日に、藤井選手が大学の卒業試験に替え玉をつかったことが発覚。大阪新聞は特ダネとして、大きく報道した。あとを追って、朝日新聞などの全国紙も取りあげ、社会問題となった。

藤井は、全米選手権への参加を辞退した。

日本学生卓球連盟は、藤井を除名した。

つづいて日本卓球協会は、1950年の全日本選手権への藤井の出場を停止する、と決定。

そしてついには、日本チームの全米選手権への参加中止にまで発展した。

 

(編集部追記)

この事件の話題性の高さは、今で言えば、TV各局ニュースやワイドショーのトップで取り上げられるようなイメージでしょうか。

当時のスポーツの中で、卓球人気が高かったこともうかがえますね。

「このとき自分は高校生で卓球を始めたばかりだったが、自分も含めて若い選手たちの多くが、肩身の狭い思いをした。しばらくのあいだ、練習場に通うのにラケットを隠したもんだ」と荻村伊智朗さん(故人・国際卓球連盟第三代会長)が述懐しています。

 


藤井基男(卓球史研究家)

1956年世界選手権東京大会混合複3位。引退後は、日本卓球協会専務理事を務めるなど、卓球界に大きく貢献。また、卓球ジャーナリストとして、多くの著書を執筆し、世に送り出した。特に卓球史について造詣が深かった。ニッタクニュースにおいて「夜明けのコーヒー」「この人のこの言葉」を連載。

本コーナーは藤井氏から「横浜の世界選手権に向けて、過去の世界選手権をもう一度書き直したい」と本誌編集部に企画の依頼をいただいた。執筆・発行の14日後、2009年4月24日逝去