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昭和22年創刊、800号を迎えたニッタクニュースのバックナンバーから編集部がピックアップしてお届けするページです。
※ここに紹介の記事は、原文を一部抜粋、編集しています。敬称略
QアンドAとエピソードでつづる世界選手権おもしろ史
第16回大会1949(昭和24)年2月4-10日 ストックホルム(スウェーデン)
Q――日本の明と暗―国際復帰第1号と日本チャンピオンの出場禁止、なぜ?
――1949年から50年にかけて、日本卓球界には明るい話題と暗い話題があったね。
1.明-国際復帰第一号
――まず、明るい話題から。
……日本の水泳陣が戦後はじめてアメリカへ渡り、全米選手権で古橋広之進が世界新記録で優勝し、国民的なヒーローとなった。敗戦後の日本に、自信と明るさをあたえた。それより6ヵ月前の2月8日、国際卓連総会は日本の再加盟を承認。これがあらゆるスポーツを通じ、戦後日本の国際復帰第1号である。
※1928(昭和3)年に代表者城戸尚夫(のちの日本卓球協会副会長、国際卓球連盟会長代理)の名前で加盟したが、太平洋戦争をはじめたために除外されていた。
ただし、厳しい条件つきの復帰だった。
日本の再加盟に反対する国々があったからで、井坂信太郎の「ハンガリー、チェコ、ユーゴ、の3ヵ国が反対、難航を続けたが、米国の妥協案に同意。(いますぐの)日本の世界大会参加は認めぬ代わり、希望国との試合は承認するという形で決着した」
米国の助け舟のおかげで、いち早く国際復帰が実現したわけだが、この間の事情を日本卓球協会理事長の長谷川喜太郎が中心になって発刊した『卓球人』の同年5月25日号は、1ページにわたって掲載している。かいつまんで、紹介する。
①マッカーサー元師杯の生みの親である池田政三(09参照)が、米国卓球協会のシスター会長と接触。
②シスター会長から返信。モンタギュ国際卓連会長あてに「加盟申請をしなさい。その際に米国卓球協会が支持していることをつけ加えるように」との助言があった。
③池田は城戸らと相談し、シスターの助言にしたがいモンタギュあてに文書を送った。
④日本の再加盟を認めるべきと考えたモンタギュ会長は、ストックホルムで行われた国際卓連総会の議題として取り上げた。その結果、日本の世界大会参加は認めぬ代わり、希望国との試合は承認するという条件つきで日本の再加盟が承認された。
――日本との試合を希望する国が当時あったの?
……最初に手をあげたのは米国で、この年の7月に「明年3月の全米選手権への招待状」が米国卓球協会から届いた。日本卓球協会は喜んでこれに参加することを決めた。日本の卓球界にとって、まことに明るい話題であった。なお世界選手権への正式参加資格が、翌1950(昭和25)年の総会でドイツなどとともに認められた。
…続きの明と暗の「暗」については、9/10配信!
藤井基男(卓球史研究家)
1956年世界選手権東京大会混合複3位。引退後は、日本卓球協会専務理事を務めるなど、卓球界に大きく貢献。また、卓球ジャーナリストとして、多くの著書を執筆し、世に送り出した。特に卓球史について造詣が深かった。ニッタクニュースにおいて「夜明けのコーヒー」「この人のこの言葉」を連載。
本コーナーは藤井氏から「横浜の世界選手権に向けて、過去の世界選手権をもう一度書き直したい」と本誌編集部に企画の依頼をいただいた。執筆・発行の14日後、2009年4月24日逝去