OFFICAL ACCOUNTFOLLOW US
TOPICS
昭和22年創刊、800号を迎えたニッタクニュースのバックナンバーから編集部がピックアップしてお届けするページです。
※ここに紹介の記事は、原文を一部抜粋、編集しています。敬称略
QアンドAとエピソードでつづる世界選手権おもしろ史
第14回大会1947(昭和22)年2月28日-3月7日 パリ (フランス)
Q――卓球は戦後の復興が他競技とくらべてめざましかった?
――1945(昭和20)年に、第二次世界大戦が終わった。戦後の卓球の復興は、他のスポーツにくらべてめざましかったと聞くがホント?
……ホント。「国内」と「世界」にわけて、話をすすめよう。
国内では敗戦翌年から全国大会
――では、国内から。
……「わがスポーツ界で一番早く復興したのは卓球だった」と、卓球界の先輩、井坂信太郎が『日本卓球史年表』に書いている。うれしいね。焼け跡の街のあちこちで、机など卓球台がわりにして卓球のラリーを楽しむ人たちが大勢いたし、学校では休憩時間に生徒が行列をつくって“3本勝負”などが、はやった。敗戦直後のボールは貴重品で割れやすく、割れると接着剤で接着してつかったものである。
――全国的な大会は?
……1946(昭和21)年に日本卓球協会主催で、8月には東西対抗戦。11月には、戦前の明治神宮体育大会にかわって誕生した第1回国民体育大会を日本選手権と兼ねて開催。12月には、戦後第1回の東京選手権が行われている。
――なるほど、すばやい見事な復興ぶりだね。はだしのプレーヤーもいたとか。
……そうそう。46年の日本卓球ルールを見ると、運動靴をはいてもよい、とある。ということは、はだしのプレーヤーが多かったことを示している。
――当時の関係者やプレーヤーの熱気が伝わってくる感じがするね。
……翌1947年には、池田政三(日本炭酸社長、大阪卓球人クラブ会長)らの尽力で、硬式・軟式テニスと卓球の3競技にかぎって、占領軍最高司令官マッカーサー元師のサイン入りカップをいただいて「マッカーサー元師杯都市対抗」がスタート。当時としては最も華やかで盛大な大会であり、米軍及び日本政府から予選に出場する全都市に対して30ダース平均のボール*が支給される(48年)などのことがあった。
*そのころボールは手に入りにくく、貴重品だった。卓球専門誌『卓球人』の創刊号(47年発行)が17円の時代に、貴重品のボールは1個15~20円だった。ラケットは、安くて木そのままの「木べら」が多かった。
ラリーが楽しく、誰でも手軽にできる卓球が、こうして他競技に先がけて、めざましい復興ぶりを見せた。
世界では47年パリ大会に1.8倍参加
――戦後第1回の世界選手権は、いつ、どこで行われたの?
……全日本選手権より1年おくれの1947(昭和22)年にパリで開催された。男子団体には、戦後最後の大会の10チーム参加にくらべ、1.8倍の18チームが参加した。
●こぼれ話
『卓球人』創刊号から
卓球専門誌『卓球人』が47年5月1日に創刊された。沼正治・日本卓球協会会長の「発刊に寄せて」の要点を紹介する。
――昭和13(38)年にサバドスとケレンを迎えて行われた「日本対ハンガリー国際卓球試合」で日本の実力が世界水準にあるとわかり、世界をめざそうとした矢先に戦争に直面したこと。
――戦後の卓球の復興はめざましく、特に地方の熱心さは心強いこと。
――将来は硬式1本に転換するのが理想的と思われること。
――『卓球界』も発刊され、まことに喜ばしいこと。
などが熱っぽく語られている。
藤井基男(卓球史研究家)
1956年世界選手権東京大会混合複3位。引退後は、日本卓球協会専務理事を務めるなど、卓球界に大きく貢献。また、卓球ジャーナリストとして、多くの著書を執筆し、世に送り出した。特に卓球史について造詣が深かった。ニッタクニュースにおいて「夜明けのコーヒー」「この人のこの言葉」を連載。
本コーナーは藤井氏から「横浜の世界選手権に向けて、過去の世界選手権をもう一度書き直したい」と本誌編集部に企画の依頼をいただいた。執筆・発行の14日後、2009年4月24日逝去