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昭和22年創刊、800号を迎えたニッタクニュースのバックナンバーから編集部がピックアップしてお届けするページです。
※ここに紹介の記事は、原文を一部抜粋、編集しています。敬称略
QアンドAとエピソードでつづる世界選手権おもしろ史
第19回大会1952(昭和27)年2月1-10日 ボンベイ(現ムンバイ)インド
――日本、初参加で4冠。ペンホルダーの攻撃卓球とスポンジ佐藤のプレーは世界をアッと言わせた世界選手権って?
それは“最大級の驚き”だった
――日本の参加が認められた最初の世界選手権が1951(昭和26)年にオーストリアのウィーンでひらかれた。当時の日本卓球協会は登録制度もなく、財政が苦しい。ウィーン大会への参加を見合わせた。その翌年に、アジアではじめて、インドのボンベイで第19回大会が開催された。インドなら日本から近く、お金もあまりかからない。日本卓球協会は初参加を決定。男女とも団体戦を戦うのに必要な最少人数の選手を送ったわけだね。
……当時の団体戦は、男子がスウェースリング杯方式と言って、3人がシングルスを3回ずつ戦う9シングルス制(5点先取法)。女子がコービロン杯方式と言って、2~4名による4単1複(3点先取法)で行われた。日本は男子3名(藤井則和、林忠明、佐藤博治)、女子2名(楢原静、西村登美江)の選手と団長・城戸尚夫、監督・大門大助の7名から成る選手団を送った。
そのころの世界卓球界の主流は、ヨーロッパのカットによる守備を主体とするプレーであったが、ヨーロッパ勢は初参加の日本に対する警戒心もなく、日本のペンホルダー攻撃に対する研究が成されていなかった。
日本は、女子団体優勝のあと、男女ダブルスと男子シングルスに優勝して、世界の卓球界をアッといわれた。特にスポンジ貼りラケットの佐藤のシングルス優勝は世界を驚かせた。卓球ジャーナリストのウゾリナッチは、国際卓球連盟75年史に、こう書いている
「日本のサトウヒロジは、ヨーロッパによる長年の支配を打ち砕いた。それは、世界卓球界を興奮させる最大級の驚きであった」
スポンジという“新兵器”の長所を生かし、「ヨーロッパの卓球に勝ちやすいスタイルに改造したこと」が、佐藤に栄光をもたらした。
全員ペンホルダーグリップで、佐藤を除く日本の4選手は、フォアハンド攻撃を得意とし、ヨーロッパを中心とする世界のカットに対して、フォアハンド攻撃による粘り打ち・プラス・スマッシュという日本伝統のプレーで活躍した。日本の大活躍は世界の卓球界に新風を吹き込んだ。
……続きは9/18配信の後編で!
藤井基男(卓球史研究家)
1956年世界選手権東京大会混合複3位。引退後は、日本卓球協会専務理事を務めるなど、卓球界に大きく貢献。また、卓球ジャーナリストとして、多くの著書を執筆し、世に送り出した。特に卓球史について造詣が深かった。ニッタクニュースにおいて「夜明けのコーヒー」「この人のこの言葉」を連載。
本コーナーは藤井氏から「横浜の世界選手権に向けて、過去の世界選手権をもう一度書き直したい」と本誌編集部に企画の依頼をいただいた。執筆・発行の14日後、2009年4月24日逝去