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昭和22年創刊、800号を迎えたニッタクニュースのバックナンバーから編集部がピックアップしてお届けするページです。
前回に引き続きバーニヤとバーグマンの強さの秘密に迫ります。
※ここに紹介の記事は、原文を一部抜粋、編集しています。敬称略
QアンドAとエピソードでつづる世界選手権おもしろ史
第12回大会1938(昭和13)年1月24-29日 ウエンブレー=ロンドン郊外(イギリス)
第15回大会1948(昭和23)年2月4-11日 ウエンブレー=ロンドン郊外(イギリス)
Q 大戦前後の約10年間は「攻めのバーニヤ」と「守りのバーグマン」の2強時代。その強さの秘密は?
A きわだつ特徴、抜群のフットワーク、並はずれた集中力があった。
「きわだつ特徴」「抜群のフットワーク」については前編に掲載!
③並はずれた集中力と闘志
並はずれた集中力と勝利へのあくなき執念で、バーグマンは負けかかっている試合を何度となく逆転している。
バーニヤについては、荻村伊智朗が次のように述べている。「ラリーが終わってから次のラリーに移るまでの間というもの、相手の目を見すえっぱなしのバーニヤの闘志には、30分、1時間とたつうちにきっと疲れて圧倒されるのであろう、と思われた」※参考文献下記
④改正ルールを追い風に
ネットの高さが約1.9センチ引き下げられた最初の世界選手権がバーニヤ初優勝の1938(昭和13)年大会であった。攻撃を多用するものにとって、ネットの引き下げは大きな追い風となった。
バーグマンにとっても、やたらに長い試合が続いたのでは体がもたないが、「1ゲーム20分の制限時間」ルールができたことは、粘りとスタミナの持続を両立させたい同選手の追い風となった。
●こぼれ話
バーグマンの出場停止と500ポンド賞金
バーグマンは47年大会に出られなかった。許可なしに海外で模範試合をやったため、移籍先のイングランド卓球協会から出場停止処分をうけたためだ。だが、じっとしているバーグマンではない。6ヵ国語でポスターをつくり、500ポンド賭けて私と試合をやりませんか、とパリ大会の会場外などで選手たちに呼びかけた。自分が世界実力ナンバーワンであることを示したかったのであろう。だが、そういった賭け事をしてはいけない、と大会主催者から止められ、500ポンドマッチは実現しなかった。大会は、バーニヤが男子の団体、単、複に優勝した。翌48年はバーグマンが再び優勝した。
※参考文献:『世界の選手に見る卓球の戦術・技術』
荻村伊智朗著/藤井基男監修
近代スポーツへの口火を切ったビクター・バルナにはじまり70年代までの古今東西の名選手31名をとりあげた、“ミスター卓球”による最高峰と称される卓球書籍(発行:卓球レポート)
藤井基男(卓球史研究家)
1956年世界選手権東京大会混合複3位。引退後は、日本卓球協会専務理事を務めるなど、卓球界に大きく貢献。また、卓球ジャーナリストとして、多くの著書を執筆し、世に送り出した。特に卓球史について造詣が深かった。ニッタクニュースにおいて「夜明けのコーヒー」「この人のこの言葉」を連載。
本コーナーは藤井氏から「横浜の世界選手権に向けて、過去の世界選手権をもう一度書き直したい」と本誌編集部に企画の依頼をいただいた。執筆・発行の14日後、2009年4月24日逝去